生家と時代背景 - ハンブルグの人、メンデルスゾーン
「メンデルスゾーンは19世紀のモーツァルトである。彼はこの時代の矛盾をはっきりと見通し、それらを和解させた初めての人物である。」 (1840年、シューマン)
ドイツ・ロマン派を代表する作曲家メンデルスゾーンは、ホ短調の《ヴァイオリン協奏曲》や交響曲《スコットランド》と《イタリア》、ピアノのための《無言歌》などの美しい調べを通して、私たちに親しい存在である。有名な《結婚行進曲》は、作曲者の名を知らずとも、誰しもが耳にしたことがあるはずだ。音楽史上、モーツァルトと並ぶ早熟の天才と言われ、存命中より高い評価を受けていた。
1809年、モーツァルトより約半世紀後に誕生したメンデルスゾーンは、神童ピアニストとして頭角を現し、溢れんばかりの楽想に導かれて作曲の筆を進めた。14歳の時には既に100を越える作品を生み出している。16歳で作曲した《弦楽八重奏曲》や翌年の《夏の夜の夢》序曲は、その完璧さと独創性の両方において、モーツァルトの同時期の作品を凌ぐと言えよう。少年期のメンデルスゾーンは、音楽だけでなく、文学や数学、地理や歴史、絵画やスポーツなど、あらゆる分野にわたって高水準の教育を授けられ、幅広い知識と教養を身につけた。ゲーテやヘーゲルらの知識人とも親しく交わっている。成人後はライプツィヒとベルリンを拠点に活躍し、音楽界の若き指導者としてヨーロッパ中の注目を集めた。作曲家としてのみならず、指揮者、ピアニスト、オルガニスト、さらには室内楽奏者(ヴァイオリン、ヴィオラ)として才能を発揮し、自作や同時代人の作品を演奏するとともに、バッハやヘンデルら、過去の作曲家の作品を積極的に取り上げた。ライプツィヒ音楽院の創設やオーケストラ団員の社会保障の充実にも尽力し、音楽組織の近代化に大きな影響を与えている。しかし、最盛期の真只中、病に倒れ、1847年11月4日に38歳の若さで急逝した。直接の死因は脳卒中だが、過労と心的ストレスが重なったと考えられる。
メンデルスゾーンは、モーツァルトと同様に、短い生涯において数々の名曲を残し、他の誰もが到達しえない独創的な境地に早くに達した。その作品は、伝統的な調べと形式の枠組にとどまりながら、一作ごとに感情のひだを丁寧に描き、聴く者の心の奥底に語りかけてくる。時代を越えて愛され、聴きつがれる、こうした特徴を踏まえ、シューマンはメンデルスゾーンを「19世紀のモーツァルト」と呼んだのであった。
メンデルスゾーンの多才な活動や作品の魅力に比して、今日の私たちは彼の業績を十分に理解しているとは言えない。ポピュラーでありながら、何となく素通りしてしまう作曲家というイメージがメンデルスゾーンにはある。こうした不当な軽視の背後に、実は反ユダヤ主義の影が見え隠れしていることを忘れてはなるまい。メンデルスゾーンは、著名な思想家や銀行家、音楽家を輩出したユダヤ系エリート一族に生まれ、少年期にキリスト教の洗礼を授けられた。当時のドイツ社会にユダヤ人が同化していくためのひとつの道であったが、メンデルスゾーンはその後もなお、ドイツ人からはしばしばユダヤ人として扱われ、一方、正統派ユダヤ人からは非同胞と見なされた。彼の内面の葛藤は、生涯と創作にも反映しているが、その際、分裂を強調するのではなく、逆に、完璧な調和を求めて苦闘する方向に進んだのが特徴である。20歳を越えた頃からメンデルスゾーンは、徹底した自己批判精神を抱くようになり、自作に対しても推敲に推敲を重ね、完全なものだけを残そうとする姿勢が強くなる。例えば、《ヴァイオリン協奏曲》の完成には6年の歳月を要しており、《イタリア》交響曲に対しては、初演の成功後もさらなる改訂が必要だと感じ、結局は出版に供しなかった。
メンデルスゾーンの人となりと作品は、決して素通りできない深奥さを備えている。長いこと覆い隠されてきた彼の真実の姿は、今ようやく明るみに出てきたところだ。2009年のメンデルスゾーン生誕200周年に向けて、この作曲家のイメージは大きく変わろうとしている。私たちも心と耳を研ぎ澄まし、再発見したい。「時代の矛盾を見通し、和解させた」メンデルスゾーンの意義を。
(星野宏美・音楽学者)