少年時代
学校をやめて、彼は家庭教師について多くの科目を学ぶことになりました。ラテン語、ギリシャ語、英語、フランス語、数学、体操と水泳、絵画、そして音楽! 最初、母からピアノの手ほどきを受けた後、高名なL.ベルガーの元で姉とレッスンを受けたのです。早くから二人の才能に気づいた両親は、可能な限りの英才教育を施します。10歳になったフェリックスは、プライベートなコンサートで初めてピアノを演奏しました。
ベルリン・ジングアカデミーの監督C.F.ツェルターは、フェリックスの音楽教育にとて最も重要な存在となります。バッハの対位法、モーツァルト後期の作品などを教え、やがて作曲へと導きました。ピアノ曲、ジングシュピール、アカペラの合唱曲、弦楽交響曲など。幸いなことに、これらの曲はすぐに自宅での「日曜音楽会」で演奏されました。この音楽会は音楽家や音楽愛好者のメッカとして大変な人気を呼びました。この頃からI.モシェレス、K.クリンゲマン、F.ダーヴィド、E.デヴィリエン等との生涯を通じての深い交際が始まったのです。
12歳のフェリックスを、ワイマールのゲーテに引き合わせたのもツェルターでした。この少年の人柄とピアノ演奏は、72歳の詩人の心をたちまちつかみました。成人後、メンデルスゾーンは当時を回想して「もしワイマールの街とゲーテに出会わなければ、私の人生は違ったものになっていただろう」と述べています。
スイスやシュレジア地方への父との旅は、新しい人々との出会いと大きな芸術的刺激を受けるものでした。そして1825年のパリ旅行は特筆すべき出来事でした。フェリックスが抜群の音楽的才能を示していたにもかかわらず、高名な音楽家の判断を仰ぎたいと考えた父はパリ音楽学校のケルビーニ校長を訪ね、ようやく息子が音楽家の道を歩むことを了承したのです。
1829年3月11日は音楽史上、記念すべき日になりました。20歳のメンデルスゾーンはツェルターの反対を説き伏せ、100年も人々から忘れ去られていたバッハの「マタイ受難曲」をベルリン・ジングアカデミーで復活演奏したのです。それは19世紀におけるバッハの再評価と、今日まで続く音楽史上におけるバッハの重要性を決定づけた大きな出来事でした。続いて、フランクフルト、ブレスラウ、シュテッティーン、ケーニヒスベルク、カッセル、ドレスデンでも同じコンサートが開かれました。しかし、この「マタイ受難曲」が、バッハゆかりの地、ライプツィヒの聖トーマス教会で再演されるには、さらに12年の時もかかりました。この再演もメンデルスゾーン指揮によるものです。